その1

■立屋敷遺跡

遠賀川の本流が遠賀村西川を流れていた頃、水巻の湿地帯は地味豊かな低湿地で、立屋敷遺跡では水田農耕技術を持つ民族が集落を営むようになり、弥生式文化が芽生えた。

今まで丘陵地に住んで、狩猟、漁猟を主としていた人たちは、低湿地に進出して大陸の文化の伝達者から、稲の栽培方法を教わり、農耕を主とした新しい生活に入った。

立屋敷遺跡から発見される、弥生式前期時代の土器と共に発見される縄文時代後期の夜臼式土器は、縄文人の推移を物語るといわれ、大陸から移動した民族ではないことを立証しており、この地方の農耕文化の起源が博多平野と共に日本でも最も古いとされている。

現在でも同遺跡には無数の土器が砂中にあるいは、川底に散乱しているが、当時としては他に類をみないほどの大集落であったことを物語っている。(水巻町誌より)



■吉田工業団地

元日炭労務課長の西尾司町長は41年「快適で住みよい町づくり」を目指しマスタープランを策定し、北九州工業地帯に働く人々のための住宅都市の建設を行うこととしました。生活基盤の整備を行うこと、幹線道路の整備、公営住宅建設、工業団地を造成し企業誘致を図ることを重点課題とした41年高尾団地の造成、42年みずほ団地造成、42年吉田工業団地の造成がおこなわれました。

かって花形産業であった石炭鉱業は合理化に追い込まれ、閉山、離職者、生活保護と日本経済の暗部に転換しました。そこで生じる社会的、地域的摩擦を軽減するために、石炭六法が実施されました。産炭地域振興公団は、第一礦閉山とともに片山、常盤、第一礦社員住宅の三隣接地域に吉田工業団地を造成しました。この工業団地に企業が進出することとなり長谷川仏壇店が吉田に進出しました。平成17年現在和洋食品協業組合など9社があります。長谷川仏壇は現在ありません。(増補水巻町誌)



■十三塚

平家の落武者がおらび山(現在のおかの団地)を降りて、十三塚(猪熊)で自害をした悲しい運命を弔って、13本の巨木が植えられてありましたが、大正9年に松は猪熊の財産として刈られてしまいました。その松を刈ったためにその翌年に村の主だった人々13人が亡くなったことは不思議とされています。この付近には山伏塚、山伏の頭巾塚などがありますが、いずれもこの13塚に付随したものであろうといわれています。庚申塚があったというから村境のしるしでもあったのでしょうか。多くの13塚、山伏塚、頭巾塚といわれるもののほとんどが村境にあるということです。(水巻町誌)十三塚は猪熊小学校門の真向かいにある小山にあり、現在塚は見当たりません石碑が建っています。



■住宅団地

日炭閉山後社宅跡地の買収について、地域開発のため用地確保のため48年伊藤町長を理事長に水巻町土地開発公社が発足しました。まず日炭跡地開発の一つとして高松と三ツ塚開発計画に着手、両地域を「住宅改良事業法」に基づく地区指定区域にして、5ケ年計画で改良住宅730戸(町事業)県営住宅600戸を建て、道路・公園・集会所・店舗など近代的環境に改造しました。

炭住改良事業は昭和45年から55年度まで13年間続いた。第一礦地区(吉田、鯉口)、第二礦地区(梅ノ木、高松、三ケ頭)の炭住が対象でありました。

 49年4ケ年計画で改良住宅(高松)735戸のほかに、県営住宅(おかの台)600戸の誘致が計画され、梅ノ木炭住跡地に住宅公団の進出が内定しました。

「水巻町は町営住宅2,164戸、県営住宅816戸、雇用促進住宅80戸、住宅都市整備公団1,134戸、合計すると4,194戸の公営住宅を持つ日本一特異な町」(61年西部タイムス掲載)になりました。(増補水巻町誌)



■報恩寺(ほうおんじ)

浄土宗報恩寺は旧地名で城の腰にあります。本尊は木造阿弥陀仏で寺号は古城山地蔵院報恩寺といいます。穴生の弘善寺の末寺として、開基は念与上人です。石段のそばにある宝塔である五輪塔は瓜生 家の先祖を供養したもので享保の日付があり、水巻ではこのような供養塔は珍しいものです。



■頃末(ころすえ)  

歴史上に頃末が出始めたのは、1432(永享4)年、是末という名で「対馬文書」の中で、その後1477(文明8)年、是末の名で黒崎下宮波多野文書にでています。すでにこの頃集落が営まれていたようで、荘園の名残をはっきりさせております。

明神ケ辻山麓南面一帯が広大な地域に亘って、弥生式後期の土器と貝塚の分散出土地帯であり、古賀村から分村する以前にすでに集落の形成があったと思われます。

是末から比末になり頃末に転化したと思われます。

立屋敷の保食神社の棟礼に「保食宮は昔、水巻宮と称す。水巻は、地名にして水の巻く意なり」と記されています。明治22年(1889)の町村制施行のとき、水巻山にあった戸長役場を村役場に改称して、役場の所在地の名をとって村名にしたのが水巻村です。その後昭和15年に町制を施行し、水巻町となりました。(水巻町史より)



■八剱(やつるぎ)神社 立屋敷 

由緒書きによれば、第12代景行天皇の御世、日本武尊が筑紫野の熊襲征伐の途次、この地にて砧姫を娶られました。武尊が熊襲征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮後に社祠を築き「 館明神」として祭るのを当神社の起源とします。後に八剣神社と改称しました。文治元年(1185)山鹿城主の山鹿秀遠が社殿を造営、その後も尚武の神として、大内・黒田と城主により五度、社殿は造営されました。当神社は、元は水巻の庄数か村の産土神(うぶすながみ)もありましたが、遠賀川の改修工事(1628年)の分村によって、今では立屋敷区だけの神社になっています。境内には大銀杏の樹があり、県指定の天然記念物になっています。社宝として、壇の浦の源平合戦の戦勝記念として山鹿秀遠が奉納した県内最古の木造の狛犬と随身像があり共に町の文化財に指定され水巻町歴史資料館に展示されています。昭和15年に町制を施行し、水巻町となりました。(水巻町史より)



■河守神社 吉田三 

祭神は大山祇命、岡象女神(農業用水の神)輿玉命(おきたまみこと:土地の神)です。後年堀川開削工事の恩人福岡藩六代藩主継高を祭りました。

堀川工事着手前年の1750年(寛延3年)工事の予箇所幸神社がありましたのを一時横の山に移し祭りました。堀工事の吉田車返しの切貫が開通後1760年(宝暦10年)藩公営で現在境内の奥石段の上に新しく石室の神殿が造営され、ここを川守大明神といって三柱の神(大山祇命・岡象女神・輿玉命)を移し祭りました。一方堀川は周辺の灌漑用水、川艜(かわひらた)[五平太船]を通して米・石炭等の輸送路として地域の発展に貢献しました。

川守神社の氏子は堀川用水を利用した旧16か村(中間市・旧中間村・岩瀬村・水巻町・旧二村・下二村・吉田村・頃末村・伊佐座村・立屋敷村・朳(えぶり)村・古賀村・猪熊村・北九州八幡西区・旧折尾村・本城村・御開村・陣原村・則松村)で構成されていました。

現在の社殿は1914年(大正3年)に水下16か村により新築落成したものです。

神社行事は9月27・28日秋季大祭奉納相撲は遠賀3大相撲で現在は子供相撲になっています。

神社拝殿には豊作を感謝して奉納された36歌仙絵馬があります。1825(文政8)年に玉泉が描いたものです。36歌仙とは1009(寛弘6)年藤原公任が選んだ和歌の名手36人のことです。



■羅漢地蔵 吉田二

吉田二地区に羅漢川というのがあります。貴船神社近くに岩を屋根代わりにし羅漢さんが並んで立っています。地元の人の話をきくと、かって堀川を掘り進める際、この羅漢川が堀川として進められていましたが、難工事であり洪水などもあり多くに作業員が亡くなるなど犠牲者が多数いたそうです。その霊を弔うためにこの羅漢さんが建てられたということです。結局堀川としての繋げることができず、羅漢川となりました。同じ所に中央四国31番札所があり文殊菩薩が立っており、金剛杖に頭陀袋、手甲脚絆に念珠をつまぐり、鈴の澄んだ音を響かせ、ご詠歌を流しながら巡礼した遠い昔より、現在に至るまで春秋には、札所詣りの人々がこの地を訪れ、地元の人はその日には茶菓子を出し接待を続けているということです。



■吉田炭坑―片山炭坑 吉田一

明治30年の水巻炭坑の内、吉田炭坑は1日出炭量は40万斤で使用人数は200人平均賃金80銭でした。施設は売勘場、納屋10棟50戸、切符使用15日30日勘定、運炭経路運賃、堀川口より若松まで2円97銭、経営者は島津孫六、安永平太郎でした。

三好徳松は個人で明治36年頃末炭坑を手に入れて以来約30年間三好時代を築きあげました。三好鉱業㈱は大正8年創設、13年には大正鉱業(伊藤伝エ門)の二・伊佐座・下二の鉱区を除き、全て三好の傘下となりました。高松本坑、高松二鉱・高尾鉱の三鉱山を主力としていましたが、高松の地名は吉田片山に片山炭坑を開いてからといわれています。この片山炭坑のそばに松の巨木が1本あり、これを高松と呼んでいたところから「高松炭坑」となりました。また一説にはこの松と三好徳松の「松」との縁起からそう呼んだという説もあります。吉田炭坑あとの硬山は、現在は緑に覆われその面影はありません。(水巻町誌より)