史跡・名所2

■猪熊工業団地  猪熊

かって花形産業であった石炭鉱業は合理化に追い込まれ、閉山、離職者、生活保護と日本経済の暗部に転換しました。そこで生じる社会的、地域的摩擦を軽減するために、石炭六法が実施されました。産炭地域振興公団は、日炭若松礦業所の閉山に際しては、猪熊工業団地を造成しました。この工業団地に企業が進出してきて、39年兵庫県尼崎市に本社があるオリエンタルメタル製造水巻工場が進出しました。48年にはアイム電機工業(水中ポンプ製造)・三愛化工(金属製品防錆)・日本パーカライジング(鉄鋼表面処理化工)が進出しました。

平成17年現在この猪熊工業団地には高松産業など9社があります。アイム電機、工業日本パーカライジングも現在操業中です。

猪熊工業団地


■曲川  樋口

明治維新前から遠賀川の川筋に多くの炭坑ができ、曲川が石炭輸送の運河として役立つようになりました。曲川を利用したのは頃末炭坑、朝日炭坑、梅木炭坑、樋口炭坑などがあり、古賀、樋口にツンバといわれる川艜(カワヒラタ)積込場があって活気が溢れていました。積ン場には川艜の船頭が寝泊りする船宿もあり飲食店、散髪屋などもでき、諸式屋は一寸した積場には必ず1、2件はありました。積み場から川?に移された石炭は、三ツ頭の唐戸をくぐり江川から若松に運ばれましたが、江川では浅瀬の汐の干潮の関係で、一夜は船の中で過ごさねばなりませんでした。若松までは往復で四、五日かかったそうです。曲川大橋は樋口と猪熊との間にかかっています。中間にも曲川大橋があります。

曲川


■十字架の塔   新生街

この十字架の塔は、先の大戦において日本の捕虜となり、この地で亡くなった外国人の方を祭ったものです。昭和18年(1948)捕虜となった外国人は、日本に連行され各地の炭鉱などで働かされました。水巻町の高松炭鉱にもアメリカ人70人イギリス人250人オランダ人800人が4回にわたって送られてきました。それは主としてインドネシアとシンガポールに篭っていた連合軍でした。

高松炭鉱では古賀区にあった豆炭工場の脇に収容所を造り、坑内で採炭に従事させました。坑内での労働は厳しく、食事習慣の相違から病気で倒れる者、収容所での生活に耐えかねて脱走して処罰された者など、多くの方がこの地で亡くなりました。

終戦後、捕虜を監督していた日本炭鉱は、亡くなった方々の遺体処理に苦慮し、連合軍の戦犯調査委員到着前にこの十字の塔を造りました。

戦後水巻町から炭鉱の面影も消え、この地で戦争による痛ましい歴史があったことも忘れてられていました。しかし1985年7月オランダ兵捕虜として高松炭鉱に収容されていたドルフウインクラー氏の来町によって、町の歴史の1ページを思い起こすことができました。この十字架の塔を、再び不幸な戦争を繰り返すことのないよう平和を求める私たちの願いとして後世に伝えていきます。

 水巻町にあった捕虜収容所で亡くなったオランダ兵53名の銅版のほか、日本各地で亡くなったオランダ兵818名を明記した銅版をあわせて設置しました。(由緒掲示板より)

十字架の塔


■炭坑就労者の像  頃末

図書館の駐車場にあるコンクリート製のこの像は、戦時中に軍需生産美術推進隊により作られ、日本炭鉱第二鉱坑口付近(現頃末中央)にありましたが、閉山後は旧日本炭鉱事務所の敷地内(頃末北3丁目)に移設されたもので平成16年8月町へ寄贈されました。

第一鉱(現吉田南)にも同様の像がありましたが、閉山直後昭和41年解体されました。

水巻町は明治・大正・昭和の石炭隆盛の歴史に重きを置き、昭和15年建立の「炭鉱就労者の像」を貴重な近代化遺産に位置付け、かっての日本炭鉱第二鉱を見下ろすこの場所に設置しました。(水巻町)

炭鉱就労者の像 頃末


■水巻村誕生  下二

明治22年4月1日町村施行令による水巻村が誕生しました。古賀・猪熊・頃末・朳(えぶり)・立屋敷・下二・二・吉田・伊佐座村が合併し、役場を立屋敷丸の内に設けました。立屋敷にはそれ以前戸長役場があって、その頃から水巻の中央的な位置を占めていました。

村役場は小さな二階建て瓦葺きで、吏員は村長以下雑役まで含め6名で程でした。人口は3,000人でありました。

6月に岡有朋が水巻村初代の村長となりました。議員は13名が公選されましたが、議員の選挙権に1級・2級の区別があり、選挙資格は満25歳以上の男で1年以上その村に本籍を定めて居住し、1年以上直接税15円以上を納める者ということで、選挙されるものは満25歳から30歳までの男子で、婦人には選挙権も立候補の資格も与えられていませんでした。封建的で差別的であり、また資格のある有権者も少なく、1級議員は5票あれば当選できた時代でした。

水巻村誕生 下二


■真宗妙楽寺

山口から来た岡部磯衛門忠良という武士の開基です。天文5(1536)年鯉口に草庵を結びましたが、その後羅漢祠(御輪地)のそばに成就院という庵を建て、天正7年本願寺の末寺となりました。本尊は阿弥陀仏立像です。この場所から小六谷に移ったのは、寛永10(1633)年でありますが、昔の小六谷は石ばかりであり、堀川の揚土を捨てたので寺地としては適当な土地になることができました。

同時に「夢想によって得た」というので寺号を夢想山妙楽寺としました。またこの寺の前の堀川工事は長政の死で放棄されたままになっていましたが、いつか水が溜まり人々は大膳堀といっていました。堀川が車返しに変更になって、ここは寂しい場所となりましたが、則松から吉田への内往還も近くあり、この寺の裏からその往還に出る小径があって、それを狐道といっていましたが、則松の檀家はこの道を通って参拝していたということです。

真宗妙楽寺


■内往還道跡

往還道とは参勤交代の道として整備された街道のことですが、この吉田の道は黒田家の底井野お茶屋に通じる道とされています。内往還として吉田村には助卿(特定の村にかかる夫役)があって、殿様道として参勤交代の時も底井野お茶屋から、垣生村を経て長津村、吉田村と行列も華やかに通っていたことが遠賀郡史にも明らかにされています。

また吉田の人達は殿様道としての昔からのいい伝えを受け継いでいる所でもあります。

この道は今も利用者が日に何人かはありますが、則松境は峠の頂上になっていて、昔は茶屋があったと思われます。その頃の道路のしきたりは峠には道の補修と警戒をかね茶屋が置かれ狩人を兼業させていたのでした。(水巻町史より)

内往還道跡


■吉田改良住宅(吉田二)河守神社 吉田三

日炭第一礦閉山直前の昭和41年には水巻町内には12ケ所の炭住区があり、4,422世帯2万336人が居住していました。39年の町の人口が3万4174人であるから、その60%を占めていました。

第一礦閉山とともに、大量の離職者を抱える炭住が問題となった。水巻町は元来都市スラム対策として登場した「住宅地区改良事業」を炭住改良に適用した。第一礦の炭住=吉田地区600戸を対象とし、全国初のケースとして注目されました。昭和43年吉田地区住宅改良事業がスタートしました。9か年計画で戸数1270戸を建築。事業費は国が三分ニ・残り三分一のうち起債が85%、地元負担15%でした。水巻町は37年に産炭地域に、45年に過疎地域に指定され、国および県の援助のもとに振興事業を展開しました。(増補水巻町誌)

吉田改良住宅川守神社


■古賀不動明王 (古賀)

梅ノ木バス停を降りて、少し丘に登っていくと、石柱がみえます。古賀不動明王堂は日炭高松梅木労務の建物の左脇にあるお堂で、中央四国五十四番の札所になっています。

この不動尊の縁起は、「大正5年再建の際の寄進名簿の緒言」には次のようにいわれています。

「今を去ること七百有余年の昔後鳥羽院の御宇文治3年(1187)に、久我城の城主である麻生修理の亮鎮里が勧請したまうところでありまして、世に伝う麻生氏の妃の重病に悩み続けられ、命脈旦夕に迫りきたりたる時に、関東下総の国垣生郡成田の荘に在す神護新勝寺の不動明王に祈誓を懸けられました。すると忽ち妃の病が平癒したので、その祈願が不動明王のお蔭で成就したと考えられ、この地に堂宇を建築し神護新勝寺の霊像を勧請されたものであります。 云々」

その後たびたび悪疫等が発生した際には、この不動明王の霊験があらわしたことがあったそうです。(水巻町史より)

古賀不動明王


■久我神社(古賀)

豊前坊山の坂道を登っていくと久我宮の石鳥居が見え、境内には久賀神社があります。久我神社由来は掲示板に詳しく記載されています。

神功皇后が征韓の途次、筑紫岡湊に御滞在のおり、当古賀村に三神鎮座を閉召され、今の字 惣仙洞において釣り上げられた鱸(スズキ)を蓼(タデ)の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られました。この遺風が「穂蓼の神事」であります。これは神前において、蓼の葉を刻み、それを顔面に塗り皮膚への滲み具合によってその年の豊凶を占う神事でありますが、現在は途絶えています。この神事は中世の御世、古賀、朳(えぶり)、頃末の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主麻生氏の出城が、久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊に厚く、郡中、七大社の一つでありました。当時本社は区の南に分祀されることとなり、頃末には元亀2年(1571年)に、朳には天正16年(1588年)社殿が設けられた。同時に本社も字亀の甲に御遷座申し上げました。また宝暦9年(1759年)それまで伊豆神社と称していたものを、久我大明神と改めました。明治43年本社を今の地に遷座し、合わせて豊前坊にあった高住神社(旧豊日別神社)及相殿疫病斎字厚鎮座の多賀神社洞鎮座の貴船神社及び各神社の境内社を合併合祀しました。この大神は古来安産の神として崇められ古賀には難産の煩いがないといわれます。

久我神社