史跡・名所3

■伊豆神社(頃末)

元亀2年(1571年)頃末地区の開拓に伴い古賀神社鎮座の伊豆大名神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立されました。よってこの山を明神が岳といいます。

 大正3年(1914年)この地に遷座、現在に至っています。彦火々出見命は高千穂降臨の神 邇々芸命(ににぎのみこと)の御子であり初代神武天皇の祖父にあたります。この大神は山を好み給い高千穂の宮当地に御臨降されたと言い伝えられています。合祀神社貴船神社は雨の神様として広く各地に祭られており、幸神社は「咳」の神社として、又唐熊神社は安政4年(1857)悪病流行しその消除のため建立されましたが、大正3年3社同時に伊豆神社へ合祀されました。

祭神は彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)・玉依姫命(たまよりひめみこと)塩土老翁(しおつちのおじ)です。(伊豆神社由緒より)



■謡曲「砧」 (立屋敷)

長専寺の境内掲示板に「謡曲史保存会」の説明文があります。

謡曲「砧」は、夫と遠く離れた妻の恋慕の執心を生前、死後両面から描いた曲であります。ここ立屋敷は、古くは館屋敷とも書きました。前の遠賀川は寛永5年(1628年)以前はずっと西を流れていました。当時の立屋敷は対岸の広渡と同一村でありました。謡曲「砧」の主人公は川下の港町芦屋の某の妻、芦屋の某の住んでいたのがこの里ともいわれ、「砧の里」の伝承を残しています。鏡観音は昔は「砧姫明神」ともいい慶長6年(1601年)に村内にあった砧姫の墓と伝える古墳より出た直径8寸の鏡を祭っていました。後に観音の木像を祭り、鏡は八剣神社に移しました。その鏡も貞享元年(1684年)正月に盗難にあい失われてしまいました。

隣接の矢剣神社も日本武尊と砧姫の伝承があり、砧姫社を相殿に祭るという、寛永の工事で社地が河川敷となったため合祀したといいます。鏡観音との関係は詳らかではありません。

謡曲砧


■炭坑坑口跡 (吉田三)

水巻町の各地区に多くの名所旧跡があります。色々なところを訪ねて行くうち、かつて水巻を100年間に亘って代表してきた炭坑の記念となるようなモニュメントが、極めて少ないことに気づきました。40年前の水巻と現在の水巻では全く町の様子が変わっています。炭坑の全てを払拭するかのように、新生北九州のベッドタウンとして生まれ変わっています。この変化は時代に即した適切な対応だったと思いますが、かつて町を支えた炭坑の思い出が少ないということは寂しいことです。他の町村では炭坑記念館があったり、色々な形で物が残されています。

 この吉田三地区にある堀川車返しの住宅の後ろにひっそりと存在する炭坑の坑口跡も、近い将来取り壊されていく予定になっています。どこかへ移設しかって反映し炭坑時代の記念物としてなんとか残せる手立てはないものかと心配しています。(下村)

炭坑坑口跡


■貴舩神社 (吉田二)

「1194(建久5)年源頼朝の家人宇都宮上野介麻生重業が平家討伐の功により遠賀郡、鞍手郡3000町歩を賜り、栃木県より下向し花尾城を築くとき京都府の鞍馬山より貴船大明神五柱を農耕水利災難厄除守護神として勧請しました。

「雨を止める時は白馬を、雨を祈る時は黒馬を献じ、風災害を防ぎ、五穀豊穣を祈る」と古記録にあり、その祭祀を藤原重満六輔 波多野兼直に定むとあります。

則松の高見神社へ1581(天正9)年事解之雄神一柱を分祀した。吉田車返し河守神社へ1760(宝暦10)年大山祇神岡象女神を一柱分祀した。」(貴船神社由緒による)

社殿は明治41年篭っていた乞食の失火あるいは機関車の煙突の飛火で焼けたとも言われていますが、高松炭鉱三好徳松など境内玉垣の寄付をし昭和3年に再建されました。「昔は雨を祈り、晴れを祷るには専らこの神社による」と社格帳に記載されていまして、大釜に湯を煮立たせ、煮立った湯を笹の葉で参拝の人に振り掛けたり、蒔を山のように積んで火を焚きその上を素足で渡って煥を蹴散らす「湯立」「煥蹴」の行事が行われていたのではないかと思われます。(水巻町誌による)

貴船神社


■吉田ぼた山

水巻で石炭が発見されたのは、1751(宝暦)年頃で堀川運河工事中で、吉田村の切抜工事中異様なる黒色の石塊を発見しまして、それが燃料に適する事を知り村民は随意に採掘して、自家の燃料に用い始めました。吉田一地区に第一鉱跡地と一鉱ボタ山があり、現在は頂上部分が削られ全体を草木に覆われており、往時のボタ山の面影はありません。

最近再開発で道路が作られており、中間側に大規模な病院施設の建設の話もあがっています。

 

ボタ山とは「鉱山で採掘された鉱石のうち、資源として使えず廃棄する岩石などの部分を捨石、俗称でボタ(ズリ)という。このボタは特定の場所に集められて捨てられるが、長年にわたり捨て続けているうちにボタは積み上げられてゆき、やがて山ができてくる。こうしてできた山をボタ山という。」(百科事典より)

吉田ぼた山


■道元禅師と芭蕉塚 (猪熊)

猪熊は井熊、猪隅と書かれた時代もありました。熊は隅で奥まったところ、入りくんだところで、島門側からいった意味にとれます。浄土宗の信者が多く、京都の本願寺の地名猪熊を名乗ったという説もあります。(水巻町史)

鷹見神社を出て左に回ると、1227年曹洞宗の道元禅師が宋より帰国したおり、この猪熊を訪れ、道元禅師の句「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」と記された石碑があります。

同じ場所に俳宗芭蕉塚もあります。

道元禅師と芭蕉塚


■喚山(おらびやま)ものがたり (樋口)

おらび山は樋口町のおかの台にある標高70mの山です。

名前の由来は平家の落武者との関係で信じられています。壇の浦の戦いで敗れた平家の家臣が敗残の姿もいたましく、江川の方からやっとこの山に辿り着きました。山の頂上からはるかに古賀岳(豊前坊山)の山鹿透遠の端城をのぞみ、平家軍の安否を大声で呼ばわったのですが、その時既にこの端城も支えを失って落城した後でした。

声を限りに大声をあげて叫んでみたものの、落城と聞いた落武者の悲嘆は、遂に自決を覚悟しなければならなかったのです。やがて静かに山を降りて十三塚(猪熊)で自害したのでした。同勢十三人であったといいます。いまわの声が里人の耳に焼きついて残ったのでしょうか、その声のおらばれ山として「喚山」と言うと伝えられています。(水巻町史より)

おらびやま


■古賀城址 (新生街)

久我神社の奥に回ると急な丸太造りの階段が見えます。五分ほどその山道を登り、見上げると石垣と小さな建築物が見えます。ミニチュア山城かなと思わせるその山頂には、古賀城址と刻まれた大石があります。古賀城は芦屋にあった山鹿城の出城であり、南北朝初期に立てられ、標高84mの山の頂上にあります。山鹿城は海賊城の型式で別名亀の尾城とも言われ平安末期に築城されました。

筑前北部は1571(元亀元)年より1577(天正5)年の8年間は豊前・筑前を大友宗麟が制覇するところで両国はこの間平和な時が訪れていました。

ところが1578(天正6)年4月宗像軍が遠賀平野へ侵攻を開始しました。氏貞は中間市底井野にある猫城(永富四郎左衛門)を岡垣にある岡ノ城(瓜生貞延)の守りとしたいため、猫城を攻撃しました。

芦屋の山鹿城(麻生元重)と水巻にある古賀城(麻生鎮実)は猫城を救援したかったのですが、宗像軍に落城させられていまいました。


古賀城跡


■与四郎の伝説 (頃末)

与四郎は伊予の国に生まれて、子供の頃両親と共に故郷を去り、頃末村で育ちました。両親は若くして世を去り、残された与四郎は、村人たちに助けられて成長し、一人の作男として働くようになりました。

元和元年(1615)の大飢饉にあたり、頃末村では、藩に納める年貢米を減免してもらうため、稲の出来高を調べる検見を願い出ました。いよいよ明日検見が行われるという夜、村人は集まりいろいろ相談しました。

皆、心の内では干してある稲束を少しでも裏山に隠せば、出来高を少なく見せられると思っていました。末席にいた与四郎は、長い間世話になった村の為、自分がこの役をやろう心に決めたのでした。夜が更けてから、与四郎はこっそりと稲束に近づき何度も稲束を裏山へかくしました。 

しかしこれで最後という時、役人に見つかり、その場で切り殺されてしまいました。与四郎が土地の者でなく、作男であったことから、与四郎の村を思う真心に、奉行も大いに感動し、格別のとがめもなく、年貢米の返上が認められました。

村人は与四郎の行為を後世に伝え、その霊を弔うため、四季折々の供養を重ねています。

義民与四郎の墓は徳照寺の丘中腹にあります。

(水巻町史より)

与四郎の伝説


■蔵冨吉右衛門ものがたり(下二)

蝗(いなご)虫が発生する時期になると、農家では夜松明を燃して、鉦や太鼓で虫送りをするくらいしか方法はありませんでした。

水巻立屋敷在住の蔵冨吉右衛門が1669(寛文10)年77歳のとき稲の害虫駆除薬を鯨の油から発見しました。当時は田の中へ油を撒いて汚いとか、中々受け入れられず不評でした。

享保17年6月蝗害の兆しがみえて、郡代白水与右エ門が郡内一般に蝗害駆除の方法を求め、当時の保食宮の神官が吉右衛門の鯨油法を伝え、郡内一円で効果を得ました。

その後実験結果が認められ国中で使用するようになったのです。

蝗虫の時期になると、鯨油を田に注いで、後から竹竿で稲の上を撫でて、虫を油の上の浮いた上に払い落としいく方法は、石油に代わる迄は見慣れた農村の風景でありました。

その死後度々藩主の恩賞を受けましたが、鯨油が石油に代わり、今日の化学農業が普及するにつれ、吉右衛門の功績は全く顧みられていません。

蔵富吉右エ門は長専寺の裏に葬られていまして墓標に享保5年と記されています。

蔵冨吉右衛門